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18まえ、坪あたり30ドル以下の地価なら検討できることとなった。そうして購入、工場を建設したのが西原町の現在のニューマンの土地である。本土復帰と工場閉鎖1972年5月15日、沖縄は本土に復帰した。グランドキャッスル工事や海洋博工事、国道の横断歩道橋なども、前述の西原の工場で製作した。道路整備・空港整備・水道事業などが本土復帰から1975年の海洋博開催までの3年間に集中して行われたが、海洋博の入域観光客を見込んだ企業の過剰な設備投資の余波で、海洋博終了後、県内の景気は大幅に落ち込んだ。各産業部門で倒産が相次ぎ、名護鉄工所も打撃を受けた。工事そのものが減ったのに加え、同業者の工場増設、本土企業の入札参加もあって工事の受注が難しくなった。本土企業は本土での施工費で受注するが、県内企業にとって本土企業の見積もり金額では採算が合わないのである。なぜなら、本土企業はいろんな仕事で専門業種化されていて効率がよく、設備と専門知識の技術者がそろっているので施工費を安くあげることができたからだ。鉄工所ひとつとっても、ビル建築、平屋専門、金物製造、橋梁工事、タンク製造等、すべてが専門化されており、ノウハウの違いを厳しく見せつけられた。海洋博後、約2年は頑張ったものの、赤字経営から改善はできなかった。仲村は、「会社にまだ余裕があるときに工場を閉めておけば、しばらく遊ばせておくこともできる。そしてまた新たな事業を始めるときに使うことができる」と決断。西原の工場は閉鎖することになった。常に時代のニーズに応え業務改革を重ねてきた名護鉄工所であるが、メイクマン浦添店をオープンさせた後の1976年6月、名護鉄工所の経営をアルミ事業のみの一本とし、鉄工部を廃止。浦添の事業所に社員を戻して、湧川を営業部長に据えて再スタートを切った。