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17MAKEMAN40THANNIVERSARY製糖工場の鉄骨工事、オリオンビールの名護工場鉄骨工事、沖縄での公共工事の先駆けともいえる那覇市与儀の県立病院(高層建築第一号)、琉球セメント株式会社の機械設置工事および電気工事、首里グランドキャッスルホテル(現・ホテル日航那覇グランドキャッスル)の鉄骨工事などが代表的な仕事である。オリオンビールの工事ではビール貯蔵アルミタンクをも手掛け、業界の話題を集めた。これは、オリオンビール工場長からタンクを沖縄で作れないかと相談された仲村が独自に研究し、タンクの鏡を作る機械を開発、試作品を作ってオーケーをもらってのことだった。仲村は技術屋的な性格で、チャレンジ精神にあふれた人物だったのである。グランドキャッスルホテルの工事については、すべての鉄骨発注を担当した。これら鉄骨は船2隻で陸揚げしたのだが、ちょうど新那覇港湾開業時で、金秀鉄工株式会社と手分けしながら全部で約3千トンもの鉄骨を新港湾全面に荷卸しした様は壮観であった。西原町へ鉄工部移転名護鉄工所が誇る大きな仕事を立て続けに受注していたこの時代、困ったこともあった。与儀の県立病院の大型工事を受注したことで、それ以外の工事を請けることができず、お得意様に迷惑をかけてしまったのである。困った湧川が仲村に「郊外に大きな工場を作れば、また大きな工事が入っても協力工場を中に入れて一括管理ができる。何とか郊外に大きい工場、少なくとも1千坪以上の工場を作ってもらえないか」と話した。しかし、仲村の答えは意外にも「製造業は将来性がない。これから厳しいよ」というものだった。実はこの頃、60年代後半から沖縄の本土復帰を望む声が高まっており、1969年に行われた日米首脳会談で沖縄返還が決まり、復帰に向けて各業界で準備が始まっていた。製造業および建設業においても、本土復帰後、県内に本土の業者が参入してくるだろうことは予想できた。製造業・建設業の好景気にかげりが見え始めた時期でもあった。こうした懸念を抱えつつも話し合いを重ね、復帰前に土地を取得し、将来は転用も視野に入れることを踏写真右は業界の話題を集めたオリオンビールのビール貯蔵アルミタンクの溶接風景。左は工場に設置されたオリオンビールの製品槽(アルミタンク)。初めて製造するものだったため、日夜研究を重ねて取り組んだ。名護鉄工所にとって大きなチャレンジとなる仕事だった。(写真提供『名護鐵工25周年誌』)