株式会社メイクマン40周年記念誌

沖縄のホームセンター メイクマンの発行するフリーペーパー「メイクマン File」です。暮らしや手作りに役立つ情報をたくさんお届けします。


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20新たな事業開発を目指して時代はやや戻り、海洋博ショックに陥る前から仲村は常々製造業の将来性は厳しいと感じていたようだった。西原工場を閉鎖する前から、先見の明を見せ新たな事業の開発に取り組んでいたのである。約5年をかけて資料を収集し、まずはアルミサッシの規格品を販売するショールーム店舗を浦添市屋富祖の58号線沿いに開店させた。そこへ売り込みに来た塗料メーカーである株式会社アサヒペンから、本土では今ホームセンターという店が非常に人気だと聞かされた岸本は、早速埼玉県与野市(現・さいたま市)にできた『ドイト』というホームセンター1号店へ視察に赴いた。ドイトは450坪ほどの広さしかなかったが、その幅広い品揃えに魅せられ、名護鉄工所の小売り部門としてホームセンターを展開すべく、ドイトが主宰する全国組織体であるDMC(DOITYOURSELFMERCHANDISINGCOOPERATIVE)グループに加盟した。DIYセンターメイクマン浦添店を創業その頃、名護鉄工所の本社ビルを作ろうということで、浦添の敷地に8階建ての基礎で着工した。まず4階分を作るつもりで鉄骨の手配もしていたが、1973年の第一次オイルショックの影響で本建築の予算は当初の倍を超え、仕方なく地下1階と地上1階を残して4階建ての予定をさらに半分の2階建てにし、基礎工事を行った。工事期間の途中でDMCグループに加盟、ホームセンターオープンの許可が出たため、即ホームセンターとして使えるように予定を変更。1975年1月、名護鉄工所小売り部門としてDIYセンターメイクマン浦添店を創業した。店長には岸本が就任し、店名を「作る人」の意より「メイクマン」と発案したのも岸本自身であった。オイルショック後で建設業の不況が続いていたこの時期、名護鉄工所の資金繰りも厳しくなっていた。その一方でメイクマン浦添店の商品は順調に売れていたため、その売り上げを名護鉄工所の運転資金に充てる状況が続いた。店の支払いは後回しにされ、このまま続けばグループ規約違反で解約されるかもしれないとなった時、岸本がメイクマンの分離独立を提案した。


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