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「ホームセンター」という言葉がまだ馴染みのなかった時代。メイクマンは沖縄で初めて、全国でも9番目にホームセンターを開店し、今へと続く挑戦を始めました。代表取締役社長宮城順一MIYAGIJUNICHI1972年4月1日に(株)名護鉄工所に入社。メイクマン浦添店立ち上げメンバーの一人。さまざまな売り場を担当し、1984年5月、一日橋店の店長就任。その後ニューマン、浦添店、美浜店の店長を経て商品部部長、役員となり、2009年11月、代表取締役社長に就任、現在に至る。「メイクマンは何屋さんなの?」から始まった40年の歴史司会本日は各部署、各店舗の代表として入社2年目のフレッシュな若手社員からメイクマン創業メンバーである宮城社長と、年代を超えたみなさんにお集まりいただきました。メイクマンのこれまでのことをふまえつつ、未来へ向けたみなさんの意見をざっくばらんにお話しいただきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いします。まずはじめに、宮城社長の入社のいきさつをお願いできますか?社長メイクマン1号店がオープンしたのが昭和50年の1月25日です。創業のときからのメンバーで今会社にいるのは唯一私だけとなりました。私はもともとメイクマンの親会社であった名護鉄工所に入社したんですが、入社してから2年目にメイクマン浦添店を開業することが決まり、そのときにスタッフとして参画したんですね。司会当時の会社としての印象はいかがでしたか?メイクマンは県内初のホームセンターだったと聞いていますが。社長まだホームセンターという言葉もなかった時代で、日本全国でもホームセンターが上陸してまだ2年目、8店舗しかなかった時代です。メイクマンは全国で9番目にオープンした店なんです。全国的にもそんな感じだから、沖縄県民にとってもホームセンターは初耳だった。最初のころのお店の名前は「ホームセンターメイクマン」で、横文字で「DOITYOURSELF」と書いていたけど「全然意味がわからん」と言われましたね(笑)。ホームセンターという言葉もない時代だから「メイクマンというのは何屋さんなの?」とね。お客様は日曜大工のちょっと大きい店だという印象を持たれていたようです。司会従業員はどのくらいいたんですか?社長全部入れても17人くらい。店長1人とスタッフ15〜16名。一日の売上げも平日20〜30万円で、日曜でも当初は50万円くらいでした。それが半年くらいしたらね、日曜日に100万円突破したんですよ。そうしたらもうお祭り気分ですよ。お祝いムードで。そういう時代でした。司会何もかもが初めてでとても興味深いお話ですね。ありがとうございます。今回の参加者で社長の次に在勤年数が長いのが大城さんですが、住宅設備部門立ち上げ時のお話をお願いできますか?大城旧浦添店に住宅設備部門を立ち上げたばかりのころは、品揃えは今みたいにしっかりしていませんでしたね。洗面化粧台が2〜3台と、便器も1種類くらいで。その商品を49MAKEMAN40THANNIVERSARY