>> P.16
16営の鉄工所を開いたのである。戦後復興の中で建設業は建設ブームや各種プラントの建設、大規模インフラの整備などをうけて成長。日本経済における構成割合では、一次産業と二次産業が大半を占め、全体として産業振興の意識が非常に高い時代であった。沖縄も例外ではなく、特に建設業や製造業は活気づき、それは沖縄が本土に復帰するまで続いた。時代の波に乗って成長した名護鉄工所は、1948年11月、新たに株式会社名護鉄工所として組織され、鉄鋼全般の取り扱いを開始した。当時名護鉄工所は名護市に県内最大の鋳物製造工場を持っていた。しかし、復興が進む中で鋳物の需要は徐々に減少し、米軍から需要が大きかったスチールサッシもアルミサッシに切り替わりつつあった。そこで仲村は思い切って1962年5月に鋳物工場とスチールサッシ工場、錆処理を施すポンテライティング処理施設のすべてを閉鎖してアルミサッシ工場を新設。県内初のアルミサッシ製造に取り組むこととなった。アルミの需要は北部より那覇が高かったため、同年10月、那覇市崇元寺町(現・那覇市泊)に那覇出張所を設け、本格的にアルミサッシその他製品の販売業務を始めた。那覇出張所の初代所長には、那覇への進出を提案した当時の総務課長で後のメイクマン立ち上げの中心人物となる岸本安正(きしもとやすまさ)が就任した。工場移転と工事受注ラッシュ仕事は順調に増えたものの、工場が名護にあるままでは那覇の顧客との確認などさまざまな面で不便を感じることが多くなっていた。工事の需要も那覇、中部が主なため、工場移転の必要が出てきた。那覇近郊で移転先の土地を探し、浦添市城間にある現在のオリオンビール株式会社の隣の敷地3千坪を取得することができた。仲村が設備の設計をし、当時鉄鋼部担当だった当社代表取締役会長・湧川善充が現場管理の指揮をとり、アルミ部600坪、鉄鋼部400坪の建物を作り上げ、名護から浦添へ工場を移転した。1960年代、名護鉄工所では次々に大きな工事を受注した。沖縄県内の